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第17回 渡辺智世子さん(六日町、現南魚沼市)

スキーと温泉の街、南魚沼市(旧六日町)出身です。緑の美しい自然に 囲まれ、おいしいお米と水で育ちました。地元で栄養士養成の専門学校を卒業後、上京。都内の病院で管理栄養士として働いている時に、バイトで来ていた外国 育ちの日本人の方に日本語を教える機会があり「日本語って難しいけど面白い」ことを実感。日本語教師養成学校に通い修了書を取得しました。そして、日本語 を教えるにはまず自分が第二言語を習う生徒の立場になってみようと思い、英語を学ぶために渡米しました。

ニューヨークの語学学校では、友達もでき毎日が楽しく、英語が上達し ていくのもうれしかったものの、一年も経つと物足りなさを感じました。もっと自分の可能性を広げようと、学位取得を決意。ニューヨーク市立ラガーディアコ ミュニティーカレッジへ進学し、猛勉強。頑張ればその分評価されるということが大きな励みとなりました。卒業後は同ハンターカレッジへ編入。 Medical Laboratory Sciences/Biotechnologyを専攻し2007年に卒業しました。

何か人や社会に貢献できる仕事ができたらと思っていたところ、以前イ ンターンシップでお世話になった上司から今の上司を紹介していただき、New York Blood Center、National Cord Blood Programに就職しました。このプログラムは公的さい帯血バンクで、さい帯血の採取、検査、保管、提供を行っています。現在はQuality Control LaboratoryでTechnologistとして採取された血液の検査や分析などに従事しています。職場はいろいろな国から来た人達が働いているの で、日本とは違った驚きと発見があります。

渡米した当初は語学学校だけのつもりでしたので、ここまでやってこられたのは私を支えてくれている家族や友人たちのお陰です。これからも、ふるさと新潟で培った辛抱強さを生かし、もっといろいろな経験を積んで、人とのつながりを大切にして頑張っていきたいと思います。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第16回 江口真由美さん(新潟市)

新潟市中央区出身、小さい頃は家の近くの白山神社の境内・公園、信濃川の川縁でよく遊びました。東京の大学入学前の春休みは、初めてのアルバイト、巫女という貴重な体験もこの神社でさせて頂きました。

某航空会社で乗務員として数年勤務後、自費で英国滞在1年半 (秘書学校1年)、帰国後、外資系会社で秘書をしていましたが、「ニューヨークで秘書募集」広告を見て応募し採用決定後1989年に渡米しました。安穏と したマンネリ生活から脱却したい願望が強くありましたが、母親の反対を押し切る形で辛い旅立ちでした。病気がちの母でしたが、一度ニューヨークを見せてあ げたかったです。

学校経営をメインにした雇用主の秘書としての業務内容は多岐に亘り、 毎日長時間よく働きましたが、何と言ってもここで働いた2年半の間に事故の多かったこと!先ずは、従業員が5番街を歩行中、歩道に乗り上げたYellow Cabを避けてショーウィンドウに頭をぶつけ救急車で運ばれたこと(救急車に同乗し運ばれた病院で看護婦不足を補って医師の手当てを手伝ったこと)、上司 の家がボヤ火事を起こしたこと、上司がやはりYellow Cabに乗って交通事故に遭ったこと、オフィスに泥棒が侵入し盗難に遭ったこと、仕事を終え帰宅したら私の住んでいたアパート(一軒家)が全焼していたこ と。日本にいたら一生に一度起こるかどうかの事故が次々と発生し、ニューヨークではアドレナリン放出度が多くなりました。(笑)

その後、日系銀行の秘書を経て、現在は、日系金融会社現地法人の会長 秘書をしています。2005年に本社をニューヨークからテキサス州ダラスに移転し、ニューヨークの従業員は数名のみとなりました。翌年、米系投資会社を買 収した為、そちらのニューヨーク・オフィスに移転し現在に至っています。私は会長をはじめマネジメントのスケジュール管理、現法の取締役会開催やニュー ヨークでのイベントの手配、出張者・研修生のお世話などをしています。

亡き父は日系移民の子としてニューヨークに生まれ、「世界恐慌」後に 5歳で日本に引き上げ、両親は再びニューヨークに戻ったそうです。残念なことに、家庭の事情で父方の祖父母や親戚との付き合いが途絶えた為、詳しい事情は わかりません。孫の私が同じくニューヨークで働いているのがとても不思議な気がします。新潟県人会での皆様との出会いも縁あることとして大事にして行きた いと思っています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第15回 松井貴宏さん(燕市)

燕市で生まれ大学を卒業するまで県外には全く住んだ事がなく新潟で過 ごしました。6年前に大阪の家電メーカーに就職し2年後に勤め先の転勤で渡米、ニューヨークのマンハッタンに隣接するニュージャージー州で働く事になりま した。新潟を離れるまで県外の事には興味がありませんでしたが、今では海外生活で人種、文化、環境のギャップにとまどいつつもその刺激を楽しんで生活して います。

勤めている家電メーカーでは主に商品企画と販売を担当しており低価格 を武器に低所得者層をターゲットとして販売しています。アメリカは「人種のるつぼ」と言われるように、実に多くの人種や文化が存在し、様々な個性を持った 人々が暮らしています。アメリカでは貧富の差が激しく「お金に困ったから返品する」など日本に住んでいたときは考えも及ばなかったことが起こります。

またアメリカは世界一の消費国家としても知られ、そのせいもあって か、様々な国から企業が進出し競争が激化しています。家電分野におきまして製品のデジタル化に伴い製品の部品構成が単純になる傾向にあり、量産と低価格化 を得意とする中国、台湾といったアジア企業が有利に展開しており、繊細な作業を行い高品質を得意としていた日本の製造業が劣勢に立たされています。特に低 価格化を武器とする我々には脅威になっています。今後、巨大な消費国家アメリカの中でそういった海外の家電メーカーと競争し勝ち抜いて行く術を見い出しつ つ、多岐に渡る需要を相手に、日本と異なる文化を理解しながら商品を企画し販売まで見届ける、これが私のアメリカで仕事をする醍醐味になっています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第14回 青木創さん(横浜市)

私は出身は横浜ですが、勤めていた保険会社の転勤で2004年8月か ら約2年間、上越市高田で過ごしました。ちょうどその期間は、中越地震や20年ぶり大雪などがあり貴重な経験をしましたが、友人やおいしいお酒にも恵まれ て楽しく過ごすことが出来ました。ニューヨークに来たのは4年前で、アメリカで働きたいと言う夢を実現させる為に一大決心をしてニューヨークの日系保険ブ ローカーに転職しました。同じ保険業界と言う事で日本での経験が役に立ったりと馴染みやすい所もありましたが、やはり日米で大きく違う所もあり、まだまだ 戸惑うことも多いです。ただ、日本にいたら会えない人に会えたり、出来ない体験も出来きるのがニューヨークで、もっと早く決心しても良かったと思っていま す。

新潟出身ではない私ですが、県人会の活動を見た友人が連絡をくれたり、帰国の際には高田公園の花見に行ったりと今でも新潟とは繋がりもあります。また、上越にいた時と同様にニューヨーク新潟県人会にもすっかり馴染んでしまい、今ではすっかり新潟県人のつもりでいます。

記事: 新潟日報グローバルにいがた