カテゴリー別アーカイブ: 県人

第28回 安岡京子さん(南魚沼市)

KyokoYasuoka

八海山の麓で美味しい雪解け水とコシヒカリを食べ、18才まで過ごしました。

毎年冬になると、小中学校の時は片道1時間の通学路を吹雪の中、泣き出しそうになりながら歩いた記憶が蘇ります。 子供時代に自然の厳しさ、美しさ、豊かさの中で成長した事は、生きるベースになっています。

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第27回 新保さん(新発田市)

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ニューヨークに初めて降り立ったのは、1886年11月。商社マンになって初めての出張の時でした。当時私は、日本からスイミングプールの殺菌剤を北米に輸出する担当。
取引先を訪ねニューヨーク、クリーブランド、アトランタ、ラスベガス、ロサンゼルスを回り帰国したことを鮮明に覚えています。同時に、メーカーさんのかばん持ちの予定が全く逆の立場に。以来欧州駐在までの5年間、年に数度の米国出張は多くの刺激を受ける楽しい時間でもありましたが、業務はアメリカの競合メーカーから、アンチダンピングの提訴を受け、ダンピング関税の無税を勝ち取るまでの受難な時期でもありました。
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第24回 高橋幸代さん(長岡市)

長岡市出身。ブルックリンで作曲と、音や映像を使った舞台作品の制作をしています。

ピアノを教えていた母の影響で、子供時代は家中に音が散乱。右耳からクラシック、左耳からは祖母の弾く三味線や、ラジオの浪曲の唸り声が入ってくる不思議な環境でした。

その体験のせいか、新しいものと古いもの、海外のものと日本のものの 両極とずっと関わってきました。東京に進学して、大学助手として就職。現代アートと日本の古典芸能の研究をしていましたが、28歳で渡欧を決意。ベルギー の演出家に弟子入りして、舞台作品の制作法を現場で叩き込まれました。ベルギーではその後、作曲の師匠と出会い、エレクトロ・アコースティックという電子 音楽の作曲法も学びました。

ヨーロッパ生活の後、縁あってカナダのバンクーバーに住み、2012 年にNYにやってきました。旅から旅の渡り鳥、なんともとっちらかった人生ですが、素晴しい師に幾人も出会えたこと、気になる扉はともあれ全部叩いてみた こと、そして、生まれ育った新潟の土地と人の温かさ、深さが心の奥底にいつも息づいていることが、私の宝物です。

最近、新内節という江戸浄瑠璃の稽古をしていて、密かにNYのジャズ と比較して楽しんだりしています。どうやらいつも古今東西を往来する運命らしいです。これまで世界中で見聞きし、経験させて頂いたことを、これからどう やってお返ししていけるか、そんなことを考える今日この頃です。

www.nekaa.org

第23回 小池 周湖さん(柏崎市)

高校卒業まで柏崎の田んぼに囲まれた新道に住み、厳格な祖父母、ドメスティックな父、少しミー ハーだけど国際派な母、マイペースな姉、そして私という家族で育ちました。東京の美大を卒業後、理系大学院に進み、修了後は東京の設計事務所で約6年間働 きました。以前より日本建築業界の国際化、建築文化交流に貢献したいという思いがあり、31歳で退職。紆余曲折を経て、O1ビザを取得し、以前東京で勤め ていた設計事務所のNY関連事務所でのインターンを経て、現在は米系設計事務所の転職準備をしています。

NYでの設計事務所インターンでは、ひたすら勉強の日々でした。それと同時に世界が賞賛する日本 建築文化は施工者さんによって支えられて来たんだなと思わされます。今後は米系設計事務所に移り、日本とアメリカの本当の違い、というものについて追求し ていきたいと思っています。本業の傍ら、NYからの建築レポートなども日本の出版社さんでさせてもらっています。(Link: http://bit.ly/14scBB8 and http://bit.ly/qKpWDY )

32歳からの本格海外デビュー、未だ些細なことから大きなことまで毎日驚かされます。そんな中、 県人会を始め、NYの日系コミュニティに支えられながら、日々あっという間に過ぎています。目下の個人テーマは「新道、そして新潟から新州(ニューヨー ク)へ!」。失笑と驚きの連続ですが、メイドインジャパンがニューヨークでどこまで行けるか、ただひたすら目の前のことと向き合いながら、まず3年、頑張 ろうと思っています。ゆくゆくは日本とアメリカ、そして地元新潟、柏崎の建築文化に貢献することが私の最終到達点のような気がしてきた今日この頃です。

第22回 ハーマン桂子さん(新発田市)

乙川優三郎氏の「露の玉垣」の舞台となった越後新発田藩。その面影が残る新発田市で育ちました。

立教大学卒業後、結婚を機に渡米。日本語教師として派遣されたサンフランシスコにある法律事務所の日
本人弁護士さんの勧めでセントメリーズ・カレッジのパラリーガル・コースを修了。カリフォルニア州で
は当時シリコンバレーにあった米国セガ社法務部でバイリンバル・パラリーガルとして知的財産権と訴訟
関係の仕事を担当し、その後移ったバージニア州では知的財産権と会社・証券法のパラリーガルとしてレ
クレアー・ライアン法律事務所に勤務しました。現在はフリーランスのパラリーガル・翻訳者として、ワ
シントンDCエリアとニューヨークで訴訟や企業合併等の案件のアシストをしています。

ニューヨークには2010年秋に始まった法律事務所でのプロジェクトのために三ヶ月の予定で来たのです
が、一年半経った今も仕事が続いており、二年連続で新潟県人会の新年会に参加することができました。
ニューヨークは、物価が高いことを除けば、日本人が生活する上で必要なものがすべて手にはいる生活し
やすい街だと思います。また想像以上に緑が多く、街なかに住んでいても小鳥やキジバトの声で目を覚ま
すことがあるほどです。最近は歴史ある美しいビルやセントラルパークの四季折々の自然を見るのが楽し
くて、地下鉄ではなくバスを利用することが多くなりました。時間のある時は、セントラルパークを横切
って仕事から歩いて帰ることもあります。

趣味は水泳、ジャズ鑑賞。座右の銘は「人生、些事から成る」ですが、実際は、ニューヨークに来たこと
も含め、良い意味でも悪い意味でも「一寸先は闇」を地でいくような人生です。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第21回 ブランチャード彰子 さん(三条市)

1951年三条市八幡小路出身。青山学院大学卒。渡米は1976年2月にマンハッタンへ。ポートワシントン在住。一女2男の母。幼い孫娘が2人。退職後は多忙なフリーマダムです。

学校へ上がる前の幼い頃しか三条で暮らしていませんが、今でも年に1度は三条へ行くようにしています。思い出は八幡小路の朝市や三条祭り、トンビを羽織り 真夜中に初詣でに出かける父の姿や、幼くして飲んだおいしい『お屠蘇』の味。 東京の親戚の養女となったのが5歳の時でした。子供のなかった養父母にも可愛がられ、年に何度か三条の実父母へ顔を出す事が条件でしたので、姉弟達とも遊 び喧嘩も怪我もしました。年末には『お年玉集金旅行』とでも言える三条での冬休みが待っていました。小学生の時お年玉をもってぷらりと入った三条の本屋 で、少女漫画でなく英語の歌のソノシートを買いました。これが自分の英語発音の基盤となったと信じています。物まねで繰り返し歌いまくり、英語の歌にはま りました。中学から英語を訛りなしで話せたのも、10人のインディアンやビートルズのおかげだと思います!

大学卒業後チェースマンハッタン銀行に勤務し、NY本店から転勤中の今は亡きブランチャードと縁があり、日米両親(6人)が出席した結婚式の後は1975 年に香港へ転勤。翌年にはあれだけ希望していた日本ではなくNY本店へ異動命令あり、以来日本で親のそばで暮らす事が叶わなかったのはショックでした。 80年代は国際電話も航空券も高く、便利なスカイプなどもない時代ですから、孫の顔を見るのも数年おきで養父母にとても寂しい思いをさせたと悔やまれま す。

NYに来て日本外務省国連局NY国連代表部の現地採用に応募し、英語テストは当時国連公使であった緒方貞子さんが担当、結果はまあいいでしょうと言う事で 大使秘書を勤めました。途中で国連のガイド採用も応募したらすぐ来て下さいと言う事でしたのに、世間知らずでおっちょこちょいの自分は新婚だから週末は働 きたくないのを理由に取りやめ。何十年後になってはっと気が付き、なんと惜しい事をしたのだろう、あそこは国際公務員になれるゲートウェイだったのに!出 産退職前にポートワシントンに引っ越して以来この町が好きで離れ難いです。長い専業ママ時代は、種々の場所でカルチャー紹介のボランティアや通訳翻訳のバ イトもしました。子供たちにも日本語を学んでもらいました。TESOL英語教育の修士号取得は、途中で息子2人をもうけ3年近くもかかりました。長女が私 立大学に入り、久しぶりにフルタイム勤務をするうち2004年秋に主人が脳腫瘍であっという間に他界、2008年には日本へいつでも行けるように退職しま したがその後が結構忙しいのです。子供達が皆ばらばらにアリゾナ、テキサス、カリフォルニアに引っ越したので、長距離の旅が多くなります。趣味はいろいろ ある中で今でも憧れるのは社交ダンスや歌う事。アイエンガー式ヨガに通い体をまっすぐ柔軟に保つ努力を課題としています。これからの余生は今まで手つかず だった事をしたいです。独学のスイスヨーデルは、出来れば一緒にハモれる方がいればどんな展開になるか想像すると楽しいです。今の使命は施設に入居した養 母と諸々の管理、成人した3人の子供を見守り、遠くの幼い孫娘たちに仲良くしてもらうこと、自分の気持ちに忠実に前進する事です。

ここ数年は日本行きに加えて、同居人の輸入紳士靴等の卸業の関連でアメリカ国内の展示会の手伝いやイタリアについて行ったりなどで、リタイア生活とは言え ども旅行が多く忙しいものです。世界旅行が出来ますようにと若い頃に願ったのが叶いすぎてやや疲れる感じがいたします。だから願い事はよく考えてからしな いと、、、叶った時がこわいかも。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第20回 吉田理子さん(見附市)

見附市出身の吉田(旧姓: 横山)理子です。高校を卒業するまで地元で過ごしていました。長岡高校を卒業後に大学進学の為上京、大学卒業後は、カンザス州内のGraduate Schoolで2年間学んだ後に、仕事の為ニューヨークへやってきました。

子供の頃は、一歳年上の兄と一緒に年中外で遊んでいました。夏は、缶蹴りや虫取り、冬には、除雪車が集めた雪山で遊んだり、雪おろしの後に庭に溜まった雪でかまくらを作ったり、と毎日遊ぶ事に事欠かず忙しくしていました。

カンザス州には約2年間住んでいましたが、ホストファミリー、大学の寮、友達とアパートのシェア、一人暮らしと色々な生活や、全てが必要以上に大きい アメリカの“田舎”を経験できました。

ニューヨークへ引っ越してからは、IT関係の企業に勤務しネットワー クエンジニアとして働いています。主に企業ネットワークの設計・構築・保守を業務としていますが、最近では、サーバ・PC環境の設計・構築なども行ってい ます。北中南米への出張も多く、大変そうと思われがちですが、出張好きな自分としては出張の機会が来るのが楽しみで仕方ありません。

ずっと仕事に没頭する日々を過ごしていましたが、知人のニューヨークシティマラソンの応援がきっかけで6年程前から始めたマラソンを機に、仕事中心の不規則な生活から脱する事に成功。以降は、年に3-4回のフルマラソンを走っています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第19回 星野剛さん(新潟市)

新潟市の寺尾地区、夏はどこまでも青く冬は吸い込まれそうに暗い日本海を間近に望む丘の上で高校 卒業まで過ごしました。上京し大学でアルバイトと映画と呑み会に明け暮れた後、1985年に新潟に系列局がないことで有名なテレビ東京に入社。以降ほぼ一 貫して報道畑を歩んできました。

最初の海外赴任は1996−99年の韓国・ソウル。北朝鮮の兵士が攻めてきたり、国がデフォルト してIMFの管理下に入ったり、安室ちゃんやSMAPなどの「日流」ブームが起きたりと目まぐるしく揺れ動く国を、今よりかなり色濃かった「反日」感情に 囲まれる中で取材するスリリングな日々を経験しました。

その後は経済ニュースを長く担当していましたが、2008年の春に前任者が突然不整脈&腎臓がん で倒れたのを機に突然アメリカ行きを命じられ、わずか2ヵ月の準備期間でテレビ東京の現地法人・テレビ東京アメリカの社長としてNYにやって来ました。現 在、妻と息子(5歳)、猫(14歳)と一緒にカーネギーホールの裏手に在住。毎日2回の日本に向けた経済ニュースの生中継を中心に、新規メディアビジネス のリサーチなどを担当しています。韓国と同様にアメリカでも、赴任直後のリーマンショックやオバマ大統領の誕生に始まり最近のウォール街デモに至るまで常 に取材ネタには事欠かずに来ていますので、テレビマンとしては「持ってる」ほうなのでしょう。

ソウルでもNYでも、日本を離れて感じるのは常に「日本の良さ」、そ して「新潟の良さ」。と同時に、そのことに気づかず自信を持てない日本人が多いという事実にも改めて気付かされます。日本は震災に放射能、デフレ、若者の 草食化となかなか元気の出にくい状況ですが、海外で頑張っている日本人や高く評価されている日本文化をめぐるニュースをNYから日本に向けて発信すること で「元気の素」を届けていきたい。そんな思いを胸に日々仕事に励んでいます。

記事: 新潟日報グローバルにいがた