第21回 ブランチャード彰子 さん(三条市)

1951年三条市八幡小路出身。青山学院大学卒。渡米は1976年2月にマンハッタンへ。ポートワシントン在住。一女2男の母。幼い孫娘が2人。退職後は多忙なフリーマダムです。

学校へ上がる前の幼い頃しか三条で暮らしていませんが、今でも年に1度は三条へ行くようにしています。思い出は八幡小路の朝市や三条祭り、トンビを羽織り 真夜中に初詣でに出かける父の姿や、幼くして飲んだおいしい『お屠蘇』の味。 東京の親戚の養女となったのが5歳の時でした。子供のなかった養父母にも可愛がられ、年に何度か三条の実父母へ顔を出す事が条件でしたので、姉弟達とも遊 び喧嘩も怪我もしました。年末には『お年玉集金旅行』とでも言える三条での冬休みが待っていました。小学生の時お年玉をもってぷらりと入った三条の本屋 で、少女漫画でなく英語の歌のソノシートを買いました。これが自分の英語発音の基盤となったと信じています。物まねで繰り返し歌いまくり、英語の歌にはま りました。中学から英語を訛りなしで話せたのも、10人のインディアンやビートルズのおかげだと思います!

大学卒業後チェースマンハッタン銀行に勤務し、NY本店から転勤中の今は亡きブランチャードと縁があり、日米両親(6人)が出席した結婚式の後は1975 年に香港へ転勤。翌年にはあれだけ希望していた日本ではなくNY本店へ異動命令あり、以来日本で親のそばで暮らす事が叶わなかったのはショックでした。 80年代は国際電話も航空券も高く、便利なスカイプなどもない時代ですから、孫の顔を見るのも数年おきで養父母にとても寂しい思いをさせたと悔やまれま す。

NYに来て日本外務省国連局NY国連代表部の現地採用に応募し、英語テストは当時国連公使であった緒方貞子さんが担当、結果はまあいいでしょうと言う事で 大使秘書を勤めました。途中で国連のガイド採用も応募したらすぐ来て下さいと言う事でしたのに、世間知らずでおっちょこちょいの自分は新婚だから週末は働 きたくないのを理由に取りやめ。何十年後になってはっと気が付き、なんと惜しい事をしたのだろう、あそこは国際公務員になれるゲートウェイだったのに!出 産退職前にポートワシントンに引っ越して以来この町が好きで離れ難いです。長い専業ママ時代は、種々の場所でカルチャー紹介のボランティアや通訳翻訳のバ イトもしました。子供たちにも日本語を学んでもらいました。TESOL英語教育の修士号取得は、途中で息子2人をもうけ3年近くもかかりました。長女が私 立大学に入り、久しぶりにフルタイム勤務をするうち2004年秋に主人が脳腫瘍であっという間に他界、2008年には日本へいつでも行けるように退職しま したがその後が結構忙しいのです。子供達が皆ばらばらにアリゾナ、テキサス、カリフォルニアに引っ越したので、長距離の旅が多くなります。趣味はいろいろ ある中で今でも憧れるのは社交ダンスや歌う事。アイエンガー式ヨガに通い体をまっすぐ柔軟に保つ努力を課題としています。これからの余生は今まで手つかず だった事をしたいです。独学のスイスヨーデルは、出来れば一緒にハモれる方がいればどんな展開になるか想像すると楽しいです。今の使命は施設に入居した養 母と諸々の管理、成人した3人の子供を見守り、遠くの幼い孫娘たちに仲良くしてもらうこと、自分の気持ちに忠実に前進する事です。

ここ数年は日本行きに加えて、同居人の輸入紳士靴等の卸業の関連でアメリカ国内の展示会の手伝いやイタリアについて行ったりなどで、リタイア生活とは言え ども旅行が多く忙しいものです。世界旅行が出来ますようにと若い頃に願ったのが叶いすぎてやや疲れる感じがいたします。だから願い事はよく考えてからしな いと、、、叶った時がこわいかも。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第20回 吉田理子さん(見附市)

見附市出身の吉田(旧姓: 横山)理子です。高校を卒業するまで地元で過ごしていました。長岡高校を卒業後に大学進学の為上京、大学卒業後は、カンザス州内のGraduate Schoolで2年間学んだ後に、仕事の為ニューヨークへやってきました。

子供の頃は、一歳年上の兄と一緒に年中外で遊んでいました。夏は、缶蹴りや虫取り、冬には、除雪車が集めた雪山で遊んだり、雪おろしの後に庭に溜まった雪でかまくらを作ったり、と毎日遊ぶ事に事欠かず忙しくしていました。

カンザス州には約2年間住んでいましたが、ホストファミリー、大学の寮、友達とアパートのシェア、一人暮らしと色々な生活や、全てが必要以上に大きい アメリカの“田舎”を経験できました。

ニューヨークへ引っ越してからは、IT関係の企業に勤務しネットワー クエンジニアとして働いています。主に企業ネットワークの設計・構築・保守を業務としていますが、最近では、サーバ・PC環境の設計・構築なども行ってい ます。北中南米への出張も多く、大変そうと思われがちですが、出張好きな自分としては出張の機会が来るのが楽しみで仕方ありません。

ずっと仕事に没頭する日々を過ごしていましたが、知人のニューヨークシティマラソンの応援がきっかけで6年程前から始めたマラソンを機に、仕事中心の不規則な生活から脱する事に成功。以降は、年に3-4回のフルマラソンを走っています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた