「県人」カテゴリーアーカイブ

第19回 星野剛さん(新潟市)

新潟市の寺尾地区、夏はどこまでも青く冬は吸い込まれそうに暗い日本海を間近に望む丘の上で高校 卒業まで過ごしました。上京し大学でアルバイトと映画と呑み会に明け暮れた後、1985年に新潟に系列局がないことで有名なテレビ東京に入社。以降ほぼ一 貫して報道畑を歩んできました。

最初の海外赴任は1996−99年の韓国・ソウル。北朝鮮の兵士が攻めてきたり、国がデフォルト してIMFの管理下に入ったり、安室ちゃんやSMAPなどの「日流」ブームが起きたりと目まぐるしく揺れ動く国を、今よりかなり色濃かった「反日」感情に 囲まれる中で取材するスリリングな日々を経験しました。

その後は経済ニュースを長く担当していましたが、2008年の春に前任者が突然不整脈&腎臓がん で倒れたのを機に突然アメリカ行きを命じられ、わずか2ヵ月の準備期間でテレビ東京の現地法人・テレビ東京アメリカの社長としてNYにやって来ました。現 在、妻と息子(5歳)、猫(14歳)と一緒にカーネギーホールの裏手に在住。毎日2回の日本に向けた経済ニュースの生中継を中心に、新規メディアビジネス のリサーチなどを担当しています。韓国と同様にアメリカでも、赴任直後のリーマンショックやオバマ大統領の誕生に始まり最近のウォール街デモに至るまで常 に取材ネタには事欠かずに来ていますので、テレビマンとしては「持ってる」ほうなのでしょう。

ソウルでもNYでも、日本を離れて感じるのは常に「日本の良さ」、そ して「新潟の良さ」。と同時に、そのことに気づかず自信を持てない日本人が多いという事実にも改めて気付かされます。日本は震災に放射能、デフレ、若者の 草食化となかなか元気の出にくい状況ですが、海外で頑張っている日本人や高く評価されている日本文化をめぐるニュースをNYから日本に向けて発信すること で「元気の素」を届けていきたい。そんな思いを胸に日々仕事に励んでいます。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第18回 大畑みどりさん(柏崎市)

柏崎市出身の大畑みどりです。美しかった旧姓と打って変わったこれ以上ないほどぴったりの名前になったからでしょうか。新潟県人らしからぬ、規格外の人生を歩んできました。

高校を卒業するまで地元で、大学を東京で過ごしました。平凡な人生行路を歩んでいたはずでしたが、結婚をして、海外赴任の辞令がでたことが、人生の大きな 岐路となりました。いわゆる駐妻としてアメリカへやってきましたが、5年の予定の赴任が8年になり、、、アメリカの地で離婚を経験。以来息子をシングルマ ザーとして育て(というとかっこいいですが、息子は自分で育った観あり)、その息子もとうとう自立。離婚以来、クリニックで受付と保険請求払い戻しの業務 を、コンピューターを夜のお友達に、もくもくと励んできた15年。今年で滞在も早、25年となります。アメリカで過ごした年数の方が大きくなりました。波 乱の人生と形容してくれる友人もいますが、自分でひとことで語るなら、普通の平凡な人生と思うのは新潟県人ゆえか。

2010年、そんな内気な平凡な?私の人生が変わることに出会いました。とうとう自分のためだけの人生お楽しみのツールを発見。5時になると、ダンス シューズをつかんでダッシュ!一日に2時間ぐらい練習に没頭しています。Ballroom Dance です。Dancing with the Starsのあのダンスといえば分りやすいでしょうか。有名なスターが劇的に痩せて変身したことは、みなさんもご存知と思います。私にも同じことが起き、 体型が変わっただけでなく、人生そのものがかわりました。これから人生の第3?ステージ、さらに規格を超えた人生展開を楽しむ毎日を送っています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第17回 渡辺智世子さん(六日町、現南魚沼市)

スキーと温泉の街、南魚沼市(旧六日町)出身です。緑の美しい自然に 囲まれ、おいしいお米と水で育ちました。地元で栄養士養成の専門学校を卒業後、上京。都内の病院で管理栄養士として働いている時に、バイトで来ていた外国 育ちの日本人の方に日本語を教える機会があり「日本語って難しいけど面白い」ことを実感。日本語教師養成学校に通い修了書を取得しました。そして、日本語 を教えるにはまず自分が第二言語を習う生徒の立場になってみようと思い、英語を学ぶために渡米しました。

ニューヨークの語学学校では、友達もでき毎日が楽しく、英語が上達し ていくのもうれしかったものの、一年も経つと物足りなさを感じました。もっと自分の可能性を広げようと、学位取得を決意。ニューヨーク市立ラガーディアコ ミュニティーカレッジへ進学し、猛勉強。頑張ればその分評価されるということが大きな励みとなりました。卒業後は同ハンターカレッジへ編入。 Medical Laboratory Sciences/Biotechnologyを専攻し2007年に卒業しました。

何か人や社会に貢献できる仕事ができたらと思っていたところ、以前イ ンターンシップでお世話になった上司から今の上司を紹介していただき、New York Blood Center、National Cord Blood Programに就職しました。このプログラムは公的さい帯血バンクで、さい帯血の採取、検査、保管、提供を行っています。現在はQuality Control LaboratoryでTechnologistとして採取された血液の検査や分析などに従事しています。職場はいろいろな国から来た人達が働いているの で、日本とは違った驚きと発見があります。

渡米した当初は語学学校だけのつもりでしたので、ここまでやってこられたのは私を支えてくれている家族や友人たちのお陰です。これからも、ふるさと新潟で培った辛抱強さを生かし、もっといろいろな経験を積んで、人とのつながりを大切にして頑張っていきたいと思います。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第16回 江口真由美さん(新潟市)

新潟市中央区出身、小さい頃は家の近くの白山神社の境内・公園、信濃川の川縁でよく遊びました。東京の大学入学前の春休みは、初めてのアルバイト、巫女という貴重な体験もこの神社でさせて頂きました。

某航空会社で乗務員として数年勤務後、自費で英国滞在1年半 (秘書学校1年)、帰国後、外資系会社で秘書をしていましたが、「ニューヨークで秘書募集」広告を見て応募し採用決定後1989年に渡米しました。安穏と したマンネリ生活から脱却したい願望が強くありましたが、母親の反対を押し切る形で辛い旅立ちでした。病気がちの母でしたが、一度ニューヨークを見せてあ げたかったです。

学校経営をメインにした雇用主の秘書としての業務内容は多岐に亘り、 毎日長時間よく働きましたが、何と言ってもここで働いた2年半の間に事故の多かったこと!先ずは、従業員が5番街を歩行中、歩道に乗り上げたYellow Cabを避けてショーウィンドウに頭をぶつけ救急車で運ばれたこと(救急車に同乗し運ばれた病院で看護婦不足を補って医師の手当てを手伝ったこと)、上司 の家がボヤ火事を起こしたこと、上司がやはりYellow Cabに乗って交通事故に遭ったこと、オフィスに泥棒が侵入し盗難に遭ったこと、仕事を終え帰宅したら私の住んでいたアパート(一軒家)が全焼していたこ と。日本にいたら一生に一度起こるかどうかの事故が次々と発生し、ニューヨークではアドレナリン放出度が多くなりました。(笑)

その後、日系銀行の秘書を経て、現在は、日系金融会社現地法人の会長 秘書をしています。2005年に本社をニューヨークからテキサス州ダラスに移転し、ニューヨークの従業員は数名のみとなりました。翌年、米系投資会社を買 収した為、そちらのニューヨーク・オフィスに移転し現在に至っています。私は会長をはじめマネジメントのスケジュール管理、現法の取締役会開催やニュー ヨークでのイベントの手配、出張者・研修生のお世話などをしています。

亡き父は日系移民の子としてニューヨークに生まれ、「世界恐慌」後に 5歳で日本に引き上げ、両親は再びニューヨークに戻ったそうです。残念なことに、家庭の事情で父方の祖父母や親戚との付き合いが途絶えた為、詳しい事情は わかりません。孫の私が同じくニューヨークで働いているのがとても不思議な気がします。新潟県人会での皆様との出会いも縁あることとして大事にして行きた いと思っています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第15回 松井貴宏さん(燕市)

燕市で生まれ大学を卒業するまで県外には全く住んだ事がなく新潟で過 ごしました。6年前に大阪の家電メーカーに就職し2年後に勤め先の転勤で渡米、ニューヨークのマンハッタンに隣接するニュージャージー州で働く事になりま した。新潟を離れるまで県外の事には興味がありませんでしたが、今では海外生活で人種、文化、環境のギャップにとまどいつつもその刺激を楽しんで生活して います。

勤めている家電メーカーでは主に商品企画と販売を担当しており低価格 を武器に低所得者層をターゲットとして販売しています。アメリカは「人種のるつぼ」と言われるように、実に多くの人種や文化が存在し、様々な個性を持った 人々が暮らしています。アメリカでは貧富の差が激しく「お金に困ったから返品する」など日本に住んでいたときは考えも及ばなかったことが起こります。

またアメリカは世界一の消費国家としても知られ、そのせいもあって か、様々な国から企業が進出し競争が激化しています。家電分野におきまして製品のデジタル化に伴い製品の部品構成が単純になる傾向にあり、量産と低価格化 を得意とする中国、台湾といったアジア企業が有利に展開しており、繊細な作業を行い高品質を得意としていた日本の製造業が劣勢に立たされています。特に低 価格化を武器とする我々には脅威になっています。今後、巨大な消費国家アメリカの中でそういった海外の家電メーカーと競争し勝ち抜いて行く術を見い出しつ つ、多岐に渡る需要を相手に、日本と異なる文化を理解しながら商品を企画し販売まで見届ける、これが私のアメリカで仕事をする醍醐味になっています。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第14回 青木創さん(横浜市)

私は出身は横浜ですが、勤めていた保険会社の転勤で2004年8月か ら約2年間、上越市高田で過ごしました。ちょうどその期間は、中越地震や20年ぶり大雪などがあり貴重な経験をしましたが、友人やおいしいお酒にも恵まれ て楽しく過ごすことが出来ました。ニューヨークに来たのは4年前で、アメリカで働きたいと言う夢を実現させる為に一大決心をしてニューヨークの日系保険ブ ローカーに転職しました。同じ保険業界と言う事で日本での経験が役に立ったりと馴染みやすい所もありましたが、やはり日米で大きく違う所もあり、まだまだ 戸惑うことも多いです。ただ、日本にいたら会えない人に会えたり、出来ない体験も出来きるのがニューヨークで、もっと早く決心しても良かったと思っていま す。

新潟出身ではない私ですが、県人会の活動を見た友人が連絡をくれたり、帰国の際には高田公園の花見に行ったりと今でも新潟とは繋がりもあります。また、上越にいた時と同様にニューヨーク新潟県人会にもすっかり馴染んでしまい、今ではすっかり新潟県人のつもりでいます。

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第13回 田中遊子さん(新潟市、旧新津市)

高校卒業後、留学のために渡米して以来、ずっとアメリカで暮らしてい ます。カンザス州に2年弱、サンフランシスコに9年、ニューヨークに移って丸8年になります。ニューヨークは何でも出来る街、まさに「意志あるところに道 あり」。でも、あまり欲張って視界が曇ってしまわないよう、「神は細部に宿る」を肝に銘じています。

通算約10年、フリーランスのライターとして、取材執筆、翻訳、通訳 をしてきました。数年前、「文章書けるのなら、うちの広報手伝ってくれない?」と持ちかけられたことがきっかけとなり、現在は、コピーライティングや、メ ルマガ、ブログ、パンフレットなどの、「言葉ツール」のコンサルティングも手がけています。

3月の震災直後、言葉に携わる者として何か出来ないかと考え、すぐに思いついたのが、地元の人らから励ましや祈りのメッセージを集めることでした。まずは 実験的にと、募金活動の傍ら、道行く人に手書きのメッセージをお願いしたところ、多くの人が快く応じてくれました。「早く事態がおさまるように」と、びっ しり書き込む人、「スペイン語でもいい?」と祈りの言葉を綴る人。「必ずしも皆が気前良くお金を出せるとは限らない。でも、気に留めているニューヨーカー がいることを伝えられれば」と思い立ち、4月のはじめに、「日本の被災者に手書きのメッセージを」と、ファックスやメールで市内の学校約500校に呼びか けました。我が子2人が通う小学校では、すでにプロジェクトとして採用され、他からは、「姉がフクシマに住んでいるので、人ごとではない。校長にかけあっ てみる」という返信もありました。いくつメッセージが集まるか、どういう形でより多くの被災者に届けるか、現在思案中です。今後も、言葉をライフワークに していくつもりです。いつか、鉛筆を握って肉筆で綴ることを軸にした、教育プロジェクトなんか企画出来たら嬉しいですね。

http://yukotanaka.weebly.com/

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第12回 大見美砂子さん(新潟市)

新潟市関屋本村町出身です。幼いころから、夏は関屋浜で泳ぎ、冬は新潟や長野のスキ― 場で毎週のようにスキ―をしていたおかげで、年中真っ黒に日焼けをしていました。新潟の人は色白美人なんて言われますが、私には今も当てはまらないようで す。(泣)そんな新潟の風土をこよなく愛していた私でしたが、26歳の時に脱OL宣言。ワシントンDCのジョージタウン大学に語学留学。それまで、親元で ぬくぬくと生活していた私にとっては、初めての1人暮らし、しかも海外。学ぶべき事も多く新鮮で楽しい毎日でした。当初、1年だけの予定での渡米でしたの で、親からは「早く帰ってきて結婚してちょうだい。」と予定を過ぎた頃には、仕送りも止められてしまいました。(笑)こんな無謀で無計画な海外留学でした が、その後、縁あって現在の主人(アメリカ人)と知り合い結婚。今は主人と2人の娘達と幸せに、NYCのバッテリーパークシティにて生活しております。

私自身は、今現在、産前産後でお料理するにお困りの方を対象に食育インストラクターの資格、またOL時代に新潟で料理学校にて学んだ知識を活かした料理の サービスを仕事としております。日本も最近は高齢出産化(35歳以上)しており、本来頼れる両親も高齢であるため、言葉も文化も違うアメリカまできての手 伝いは難しい状況です。そこで、そのような日本人の方々が少しでも安心して出産、子育てをするのをお手伝いできたらとこのサービスを始めました。和食中心 とした栄養バランスのあるメニューと子育ての経験を活かしたアドバイスに好評を得ております。

渡米してからは、「勇気あるところに希望あり」と向う見ずに進んでこれたのも「新潟」という故郷が、いつも心の支えになってきたから。日本人であるという 誇りがあったからこそ。最近は、東日本大震災の復興を願い、微力ながら私にもできることをとチャリティーイベントに精を出しております。「ガンバレ日 本!」

記事: 新潟日報グローバルにいがた

第11回 古川剛史さん(上越市)

上越市の生まれで、高校を卒業するまで上越市で育ちました。その後県 外の大学に進学しましたが、卒業後は新潟県に戻り、2004年に新潟県庁に入庁しました。その後、現在の上越市浦川原区及び安塚区にある地域機関、県庁教 育委員会での通算5年の勤務を経て、海外派遣研修生として(財)自治体国際化協会にて勤務することとなりました。2009年4月から1年間の東京本部勤務 を経て、2010年4月から同協会ニューヨーク事務所に赴任、現在に至ります。

恥ずかしながら、海外派遣が決まるまでは海外のことに強く関心をもったことがなく、県庁に勤め始めた時点では海外 で働くことがあろうとは全く考えていませんでした。しかしながら、こういう機会をいただいてアメリカに来てみて、インターネットを中心に情報通信技術が発 達し、どこにいても世界中の情報が手に入るとは言われているものの、実際に見聞きして、体験してみないと分からないことがたくさんある、ということを実感 しています。

この機会を有意義なものにできるかどうかはあくまで自分しだいということを心に留めて、赴任期間が2年間と短い予定ではありますが、1日1日を充実したものにできるよう取り組んでいきたいと思っています。

第10回 ニッキー香月/Nikki Katsukiさん(新潟市東区)

高校時代まで新潟市で過ごしましたが、新潟での沢山の楽しかった思い出が今も私を支え てくれています。東京の病院で臨床栄養士として勤務した後、1996年に24歳で単身で渡米。右も左もわからないニューヨークでアパート探しから始まり、 日本と違う視点で栄養学を勉強したい一心でニューヨーク市立ハンターカレッジでひたすら勉強の毎日。

アルバイトを3つかけもちしながらの過酷な学生生活でしたが卒業後は 晴れてニューヨーク州栄養、母乳促進プログラムWIC (Women, Infants, and Children)で栄養士、ラクテーションカウンセラーの仕事に就き、途中妊娠、出産を経て同プログラムのアストリア支部所長として異文化の人たちのマ ネージメントに携わってきました。

長期に渡る様々な人種、文化間でのカウンセリング、マネージメントの経験を生かして、以前からの夢だった独立を決意。現在はVital Choice Inc.(http://vitalchoice.weebly.com) を設立し、日本人コミュニティーをはじめ、様々な文化間の人たちが海外でも安心して食生活、母乳育児が送れるようサポートしています。また一人の女性とし て異国の地での出産、育児体験談もニューヨーク在住の妊婦さんやお母さんたちにこれからも伝えていけたらと思っています。ニューヨークは新潟県人の粘り強 さを生かして前向きに頑張っていればいつか答えてくれる場所だといつも信じています。